★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
わからない、ということ
 いつもいつも「わかる」「わからない」という感想が凄く多いのがパパ・タラフマラである。
 解釈も勝手にどんどん増殖する。けれど、「わからない」と感じた人たちはどんどん逃げていく。ああ、そうか、こうして客離れが起きるのだなあ、と思う。

 客離れは避けなければならないけれど、オレの性として、どうしても次何ができるかを自身で試したいという気持ちが非常に強く、どんどん変えてしまう。毎回、観に来てくれている観客の皆さんからは、さほど大きく変わったようには見えないとも言われるが、一方、2~3作抜けて再び見に来た方には変わったと言われ、10年ぶりに来た方にはまったく違うと言われるような作品になっていたりするそうだ。もちろん変化していない部分だって多い。根幹部分はそんなに変わるわけがないのであるから。けれど、自分自身の限界に挑戦しているような気持ちだけはまったくいつになっても変わっていない。

 「わからない」といわれると、いつも不思議な気分になる。「面白い」けれど「わからない」と感じる方が多いとも聞く。だが、よく考えてみることだ。「面白い」と感じられたなら、それはわかっているということなんだよ、と思う。わからないのは、それが何であるかを認識できない、できにくいということであって、でも、それが何かを認識できる事って、そんなに大切な事なの?違うんじゃないの?なぜなら、認識できないから面白さは増殖するんじゃないの?と思うからだ。「それは何か」を知ってしまったならば、疑問は残らない。だから、すぐに忘れてしまう。多くのハリウッド映画は派手で、観ているときは面白いけれど、終わった瞬間に忘れ去っている。疑問はなんにも残らない。わかりすぎるくらいわかる、と思いこんでしまうからだ。けれど、わからなくて面白いものは、これは大きすぎるくらい大きな宝である。僕にはそう思えるのである。解釈も自由だし、その解釈が正しいかどうか、それは人生をやっていく中で長い時間をかけて検証していくしかないかも知れないのである。

 世の中には「わからなくて」「つまらない」ものも多い。つまらないと感じたら、そこから先は何も起きて来ないが、面白いと感じたならば、それは大きな入り口になる。その人自身にとっての可能性への入り口だ。だから、「わからない」、そして「面白い」と感じることはとっても重要なんである。
 ただし、この「つまらない」も人生を経ていく中で、「面白い」に変わる可能性もある。それが生きることの楽しさでもある。だからこそ、「面白い」と感じ、「わからない」と思ったならば、それは素晴らしい体験であり、素晴らしい可能性を自分が獲得したと思うべきなんである。

 僕はそんなフウにして生きてきた。未だにピカソの画を観て、目は釘付けになる。頭は活性化し、グルグルと回り出す。顔はニッタリとほほえみ出す。わかるかどうかなんてどうでも良いのである。目が釘付けになるということは、自分の身体がすでに反応し、それが力に変わっているのである。人がここまでできるのか、と思えることはなんとも楽しい事じゃないか。

 僕くらいの年になってくると、周りはホントにおっさんばっかりになってしまっている。おっさんたちはますます頭が一方向にしか向かなくなってしまっている。だが、可能性の扉は本来は誰にでも開かれているのだ。自ら閉じるのではなく、自ら開こうとすれば、おっさん顔は輝き出すはずなんだ。
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by kikh | 2011-02-03 23:30 | 日々の記録
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