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★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
虚無と憎悪についての意見
昨日、以下のような意見を頂きました。当人の了解を得た上で、転載します。
その上で、僕の意見を書きたいと思います。

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ブログを読みました。

>ふと、アメリカからの帰りの飛行機便の中で、たぶんアメリカ人の、初老の
>女性がずっと身体を震わせて泣き通しだったことを思い出した。何があった
>かは知るはずもない。だが、いつも思うが、ああやって芯から心を震わせて
>泣いている人間が同時に、世界中に、どれほど多くいることか。あの身体の
>反応は、身体に、単なる悲しさ以上の、虚無が入り込んでいるだろうことを
>思わせる。その「虚無」の集合体が増幅していったとき、憎悪に変わり、そ
>れが基準となって、人間は別の顔を持つようになっていく。


なんでふと泣き通しだった女性のことを思い出したのでしょうか?


そのように泣いている人に虚無が入り込んでいるであろう、虚無という言い表せない不安に駆られているであろうことは同感だ。
しかし、『「虚無」の集合体が増幅していったとき、憎悪に変わり、・・」というのは違うのではないかと思う。
虚無という大きな不安に、憎悪が入り込んでいく「隙」があることは感じている。その隙は誰の中にもあるだろうと思っている。
しかし、虚無の集合体が増幅していった時に必ずしも憎悪に転化することはないのではないだろうか?


私も将来の不安に駆られ、虚無に襲われ泣くことがあるが、誰かへの悪意や憎悪に変わったことはない。
不安に駆られているのは私だけではないと感じる。
私は21だが、同じ年齢の多くがそうであるように感じているし、年齢に関らず不安は誰の胸にもあり、突然その人を支配してしまうことがある。
そこで、虚無に対峙し、真摯に向き合っている人のほうが多いと感じるのだがそうではないだろうか?
虚無は時に人を突き動かすエネルギーにさえなると思っている。
一度しかない人生を再確認し、私に成し遂げられることを必死に探す自分がいる。


虚無に一人で対峙している時はよいが、集合体となると憎悪にと言いたかったのだろうか?
虚無が集まって祈りや願いに変わることはないのだろうか?


小池さんが書こうとした内容とは少し違うのかもしれないが、『その「虚無」の集合体が増幅していったとき、憎悪に変わり・・』という部分に対し、どうしてもメールをしてしまいました。


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以下、小池意見です。

なぜ、泣き通しの女性を思い出したか?という質問に対して。

はっきりとは言えませんが、ひとつ。
いつ行ってもワールドトレードセンターの跡地では、いろいろなことを考えさせられます。ここがあのワールドトレードセンターだったのだ、という無言の圧力。あの現場では、時間が経った今でも、人々は沈黙し、笑顔でいる人を見たことがありません。
それはきっと、さまざまな直接的な被害にあった人たちの家族にとっては、激しく泣いて苦しんだ果ての姿、鮮烈な空洞の姿なのだろうし、アメリカという巨大国家を背景にした、ナンバーワンのアメリカ国民と感じているアメリカ人たちにとっては理不尽以外の何物でもない姿を強く感じさせるからでしょう。
身を震わせ、泣き叫ぶ、あるいはすすり泣く人々。
世界的に見ると、その背景には、あまりに理不尽なものを背負っている場合がとても多いのです。この場合、絶望して諦めるか、憎悪の塊になっていくか、そのどちらかで、「私に成し遂げられることを必死に探す自分」の向かうような建設性は、理不尽な圧力の前に消えてなくなってしまうのが通例です。感覚の、感情の塊になっていくのです、人は。

この意見を読んで、まあ、今の日本だったら、そうなのだろうなあ、というのが僕が一番はじめに感じたことでした。
日本の状況というのは、さほどに平和だということでしょう。そして世界ナンバー2の金持ち国家だということです。金がなくて、明日をどう生きるか、ということに必死になっている貧国ではありません。みんな、なんとなく食え、政治に関心を持たなくても、なんとなく政治は安穏と動いているし、経済的に豊かだし、だから急激な変化を求めない人たちばかりでしょう。

さて、今の日本で、どれだけ自分自身が虐げられていると感じている人がいるでしょうか?それは、せいぜいが友だち間での差別だとか、そう言った程度でしかない。民族だとか、宗教、経済格差などの、埋めることが非常に困難な溝ではない。だからこそ、深くなっていったりすることもままあるのですが、虐げられたと言っても、大した差でもないものを差別化する、拡大解釈していく程度のことでしかないと思います。

僕は昔の死刑囚である永山則夫を思い出します。この人は1968年、19歳のときに連続射殺魔事件を起こし、死刑を求刑され、8年前に死刑執行された人ですが、教育もまともに受けられず、極貧にあえぎ、強い脱出願望を持ちつつ、結局は連続射殺魔として殺人に走ってしまった、その経緯やら、心情などを刑務所に入ってから、文章にして多く綴っています。今ではほとんど考えられない境遇が一昔前の日本にもあったのです。
もちろん、彼と同じ境遇であっても、そんな道に大多数の人々は走ってはいないわけですから、彼の方が特殊だろうと言うことにはなりますが、しかし、これが個人の貧困ではなく、民族、国家、宗教などの衣を纏い出すと話が違ってきます。
プロパガンダが行なわれるのです。そうすると簡単に人は憎悪をたぎらせていきます。つい昨日まで仲の良かった人たちが、突然、憎しみの塊と変ったりするのです。ユーゴスラビアで起きた民族紛争などはこの典型でしょう。

僕は、いろいろな国を旅します。さほど危険な地帯に行ったことはありませんが、それでも、こういう目をした人間は日本では見ないなあ、という人々に出会うことがあります。それは巨大な虚無を抱え込んだ目です。日本では、そのような虚無など、ほとんどありません、今は。実はそうではないのですが、でも、表面的にはまったく平和であり、小さな希望に満ち、ちょっとした絶望があり・・・なんです。フリーターが社会問題になっていますが、フリーターで食えてしまうということが世界では稀だと思わなくてはならないでしょう。

たいていの社会では、みんな生きようと必死です。明日、どう生きるか、食はあるのか、そう言う環境で生きている人たちの方が、はるかに多いのが世界の状況です。その必死さが、良い方向に向かうとばかりは限りません。

だからこそ、今、日本はきわめて危険なのです。なぜか?あまりに「安穏」として生きられるからであり、身体が消失しつつあるからなのです。つまり、身体の消失した文化社会はリアリティが欠如した社会ということでもある。だから、社会参加を拒む人たちも多く出てくる。
今後、どうやって日本の危険性を多くの人たちが感じられるようになるか、それをチェックし、機能させようと欲する人々がもっともっと増えてくれば、と思います。
by kikh | 2005-07-07 07:23 | アート
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