★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
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3/30 タイトル決定
 バーレーン戦はサッカー日本代表、なんとか1-0で勝った。薄氷を踏む思い。まったくジーコ監督は、こういう薄氷の勝利が大好きで、いつもいつも勝つときはぎりぎりで勝ち抜くという展開になる。なぜなのだろうか?不思議で仕方がない。


考え抜いた上で、「百年の孤独」のタイトルを決める。というのは、「百年の孤独」の上演権はあげるけれど、「百年の孤独」というタイトルを使ってはいけない、という話がマルケスの代理人よりきてしまったからだ。

そこで、世田谷の高萩、松井両氏との打ち合わせを昨日したわけなんだが、やっぱり、上演権を得られているということは、それだけでも充分賞賛に値することだから、ここは戦わずに、マルケスをしゃぶり尽くした方がいいという話になり、では、タイトルを変えなければ、と考えていたのである。ただ、~ガルシア・マルケス「百年の孤独」より~とは大きく入れさせて頂くことにした。

で、タイトルなんだが、○(ゼロ)と書いて「百年の孤独」と読ませるという手があるなあと思っている。まったくこりゃあ、百年の孤独そのものである。ゼロ、あるいはマルである。こりゃあいいとひとり納得している。だって、「百年の孤独」はゼロからゼロへの物語であり、それは円環構造を描いているという点では、マルなのだ。だからタイトルは○である。


さて、「CLOCK & SUNFLOWER」。今日でほぼ完成させた。23分の作品となった。まあ、みんな下手ではあるが、なかなか面白い作品になったと思っている。そして研究生連中も、一生懸命、稽古に参加している。しかし、一生懸命何をすればいいかがまだ分かっていない。だから亀の歩みだ。こちらはその歩みにつきあう必要があるから、精神的には良くない。明日で、まあ、充分いいものにはなるだろう。
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by kikh | 2005-03-31 00:22 | 日々の記録
 
市民にとって有意義なものとは
 先日、つくばの市民有志がつくば市長とつくばと市振興財団理事長宛に、公開質問状を出した。詳細は以下のリンク先へ。

 http://sakura-dormitory.web.infoseek.co.jp/capat/written_inquiry_1.pdf

 要は、今現在、何も私が辞めた後、4月以降のことを考えていないだろう市の方針に対しての質問なのであるが、こういう問題はどこでも起きうる問題であって、今までもずっと同じ状況が続いてきたのであった。

 つくばでの舞台芸術振興事業は、どこから見ても、成功であると確信している。
 しかしながら、私が最も心配するのは、私が辞めるのはいいとして、今までせっかく培ってきたものが泡となって消えてしまうことである。

 心配点はいくつかある。
 文化は超党派でいかなくては、うまく行くはずがない。政治的な利用をされるのは最もまずいことである。
 芸術監督制度のいい部分は、歯止めがきくことでもあった。それがなくなると、どのようにでも市民の意向と言えば、通ってしまうことになる。要は観客を入れるだけが説明責任ではない、ということだ。

 今、日本にとって必要なのは、多様性をもった文化育成である。その認識が欠如した文化育成はあり得ない。なくなったらどうなるか、客の入るものはいいもの、客が入らないものはダメなもの、という二分化しか起きてこなくなる。そしてそういう問題が今、いろいろな自治体で起きている。
 説明責任ということばがある。客が入るものは、住民ニーズにあっている、という説明責任を自治体側では、果たし得ている、という考えだ。一理はある。しかし、根本的に間違いだ。これでは、民間業者とまったく変わりないではないか。そして新しい文化や芸術を育て、そしてそれを広める責任も行政にはあると私は考える。それが文化育成であり、文化の土壌を作っていくということなのである。
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by kikh | 2005-03-29 11:27 | アート
 
3/27 ワークショップ発表は楽しい
 今日はワークショップの発表会があった。
 どうも俺はこのワークショップの最中はウンコ話ばかりしているらしい。俺のウンコの話が面白いと言ってくれる女の子がいたりして、なんと言ったらいいのか?どうも気恥ずかしいものである。ウンコと言っても、インドでのウンコ目撃談であり、同時にウンコを隠す、恥ずかしいと強烈に思う日本人メンタリティの話である。
 ウンコをするというのは生理的な、きわめて生理的なことであって、ウンコをするのは当たり前のことであるはずなのに、それをするのは恥ずかしいことであり、できる限り隠すべきことであり、ウンコをすると子ども時代は馬鹿にされるという、きわめてヘンチクリンな文化を持ってしまった国に生きている俺たちの話をしている。中国へ行けば、地元住民のための共同トイレがあって、そこの内部に入るとまったく塀がない。つまり誰も彼もがダイレクトにウンコやら小便やらしている状態を目の当たりにするわけだ。ウンコをしながら世間話をしているんである。俺がそんな扉を開けようモンなら、こっちが気恥ずかしくなって、さあてどうしたもんかと悩んでしまう。そして瞬く間に、さっと外に出るという行為に出ることになる。
 しかし、考えてみれば、ウンコは日本人にとっても食物の肥料であったわけだから、当然、最も愛すべきものとしてあったはずである。いつから、小学校の男子トイレから小便器がなくなって、すべて個室トイレにしてしまった、そんな学校が出てくるようになった時代になったのか?まあ、いろいろと考えられるが、ろくでもない時代になったと思う。

 さて、ワークショップの発表は6回で28分くらいになった。作品は面白かった。さすがの集中力で、みんな、本当にいい時間を過ごしてくれたと思う。

 終わってから、昼食会なんぞを。大勢で集まっての昼食会となった。それにしてもよくぞまあ、と思うのは、今回のワークショップ参加者は実にいろいろな劇団の劇団員が多いということだ。ここでも喋った喋った。
 そして急ぎ抜けだし、次につくばの方々と同じくいろいろと話をする。

 大至急、戻ってきて、P.A.I.第一回オーディションを行い、選考会を開き、それから楢崎と長々と飯を食いつつ、打ち合わせをする。しばらくぶりに楢崎と気持ちのいい打ち合わせができたと感じた。同じ方向性に向かって、気力とともにミーティングができるというのはとても気分のいいものである。
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by kikh | 2005-03-28 00:42 | 日々の記録
 
3/26 ワークショップ
 ワークショップが朝から。
 最近、ワークショップを開くと役者の参加者が多い。ダンサーがとても少なくなってきて、役者さんが多いのだ。これは望ましい傾向であるとともに、ダンサーはやっぱりテクニック教室しか行かないのだろうなあと感じてしまう。
役者の場合、僕はもっともっと身体を使えるようにならなければいかんだろうと思っている。台詞の意味を身体は越えるのである。しかし、台詞しか付随していない身体であるとすると、どうしてもその舞台は意味しか伝えることができない。とすると、役者は台本の付随物であり、それ以上にはなかなかなっていかないということでもある。
日本には「演出家だなあ」と私が思っている人は実に少ない。新しい演出作品を作るというよりも台本を舞台に置き換えるものが演出とされていると言ってもいいように感じてしまうのだ。非常に著名な演出家とされている人の作品を見ても、あれれ、としか思えない。これで何が一流演出家だと憤慨することもよくある。なぜなら、安易なのだ。あまりに安易な作品作りに愕然とさせられるのである。
けれど、いい劇作家はたくさんいる。そして劇作家がそのまま演出をしているケースも多いから、劇作と演出の区別がつかないのかもしれない。
これが面白いと思ってしまうところだ。舞踊にしても僕は振付家不在と感じてしまうのだが、いいダンサーはたくさんいるのである。しかし、いいダンサーと思われる人がいい振付家かと言えば、それは職能がまったく別の次元にある。ところがこの区別がつかないのが観客であり、日本人批評家である。演劇はいつまで経っても文学であり、舞踊はいつまで経ってもテクニックに重きが置かれる。うんざりだ。

ワークショップの成果は明日、昼12時20分から中野のスタジオサイで発表する。だから、もしも見たいという方がいたら、どうぞ。もちろん無料です。

ワークショップ後、ビデオインタビュー撮り。

それからP.A.I.研究生稽古。
稽古は進んでいる。とは言え、20分程度の作品である。面白くなるか?まあ、みんな一生懸命ではある。僕自身はひとつの実験をしている。それは僕自身だけが知っているのだけれど、うまくいきつつはあると感じている。
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by kikh | 2005-03-26 22:08 | 演出
 
3/25 Clock & Flower と 新しいP.A.I.
 いつもいつも時間がないと言っている。いかんいかんと思いつつも言ってしまう。言うことで再び時間がないと感じられるようになるから悪循環である。時間はひとりひとり平等だ、と言うことは簡単だが、あまり平等でもないようである。物理的な時間はもちろん平等であっても、感覚的には時間の感じ方はまるで人によっても、置かれている状況によっても違ってくるだろう。
 
 研究生のために作っている作品「Clock & Flower 」は「百年の孤独」とは関係あると言えば関係がある。しかし、ずいぶんと違ったものを意識して作っている。死んでいるのか生きているのか分からない、地場に住みついている何かを描いている。感情の起伏は激しそうで乏しく、乏しそうで激しい。時間は悠長であって、せっかちである。苦しさが歓喜に反転し、歓喜は瞬く間にどん底に突き落とされ、地べたを這いずることになる。

 P.A.I.は来月から開始されるが、来月からの来年度は、指向性を大きく変えたものにしようとしている。ひとつは平日3日コース。これは今までのP.A.I.の延長線上にあるが、土日コースはまったく違って、一般の人々に焦点を当てている。なぜなら、やっぱり「身体」なのだ。「身体」不在でいいはずがない。身体を実際にカラダを動かすと同時に頭で考えていくものにしたいのだ。本気でカラダを考えていかないと、もう人類には未来はないだろう。そういうことを知る人たちを増やさないとヤバイのである。
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by kikh | 2005-03-25 23:39 | 日々の記録
 
3/23 賞とはしょうもないもの
 研究生の覚えの遅さにいらいらしながら、待ちつつの稽古。果たして間に合うのだろうか?たった20分の作品とは言っても、それなりに本気である。だから面白いものにしたいのだけれど、稽古は本当にノロノロである。

 稽古終了後、自宅に戻ると私も登場している本が届く。「クリエーター50人が語る創造の原点」とかいう本である。京都のアートコンプレックスのディレクターである小原さんにインタビューを受けたのは相当昔のことである。ああ、今頃本になったのだ、と感心。

 今日は、疲れ切っていて、どうにも何も考える気力が湧いてこない。まあ、こういうこともあるさ、しょうがねえ、とテレビをつけると、去年の映画の賞を総なめにしたと言う「半落ち」という映画をやっている。確かに感動的ではある。しかし、こういう映画が映画賞を総なめにするとは、とがっくりときた。なぜなら、映画である必要のない映画である。まあ、映画のすごみがないんだな。舞台芸術でも同じで舞台である必要のない舞台の方が客は入るし、賞も取りやすいんだろうが、それにしても、ひでえもんである。映画なら映画の言語をふんだんに使って欲しい。それは映画でしか語れない映画とすることである。でも、最近はこういう基本的なことを忘れてしまっている人たちが大勢いすぎてしょうがねえなあ、と思うことばかりだ。
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by kikh | 2005-03-23 23:41 | 日々の記録
 
相変わらずのガチガチ
筑波大学の西澤晴美さんというまだ今年から大学院に行く学生で、つくばの私のワークショップには何度も参加していた人の卒論が筑波大学芸術学群長賞を取ったそうだ。めでたい。卒論のタイトルは「パパ・タラフマラ考-1960年代以降の日本のパフォーミング・アーツについて」である。
 この論文をやっと昨日、読むことができた。内容はなかなか素晴らしい。私が忘れていることをここで取り上げてくれたので、思い出すことができ、これはかなり貴重なものだと思った。
 今まで、何人かパパ・タラフマラ研究者がいたが、すべて外国人であった。何故に日本人がいないのか不思議で仕方なかったが、これでやっと学生ではあるが、日本人研究者が誕生してくれた。是非とも西澤さんにはこの研究を進めて欲しいと思う。
 ダムタイプとの比較などを織り込みながらの研究であるが、最後にこういうことばで締めくくられている。
 「ダムタイプは特に美術史からの研究が進んでいるが、パパ・タラフマラに関しては演劇、舞踊、美術のいずれの領域からも特異な存在としてみなされることが多く、今後さらに体系的に研究が進められるべきである。」と。
 そうなんだよなあ。以上の通りなのである。日本では演劇、舞踊、美術・・どれも堅牢なジャンルが明確に存在し、それを越える感覚というのが全然育たない。いつまで経っても育たない。先日のシンポジウムの際もみんな「演劇」ということばを使っていたけれど、アジア舞台芸術の特徴とは「演劇」の枠からはみ出し、「舞踊」からはみ出し、舞台芸術そのものであることではないか、と思うのである。しかし、最も先進的であるはずの世田谷パブリックですら、「演劇」「舞踊」であるから、こりゃあものすごく厄介だと思っている。本当に日本とは厄介な国だ。
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by kikh | 2005-03-22 09:35 | 日々の記録
 
3/20 世田谷シンポジウム

 毎日が怒濤の如く流れていく。
忙しいというよりも、やることばかりが多くて、気が急き、整理がついていないということか。
 
 朝9時半からワークショップ。まだまだいいとは言えないが、何かを感じられるようになりつつはある。本来は13時までだが、12時15分までやって、たまおにタッチして、僕は世田谷シアタートラムに向かう。13時半から「ホテルグランドアジア」について、いや、違う、それは昨日だ、今日はアジアの舞台芸術を取り巻く状況に関するシンポジウムとなった。参加者はコーディネーターの吉本さん、フェス側から東京国際舞台芸術フェスの市村さんとソウルフリンジフェスのリーさん、アジアでのネットワーク構築に携わっているファイブアーツセンターのマリオン(彼女は僕の作品にもクアラルンプールで出ている。あ、いや、ここではファイブアーツのマリオンではなく、アジアネットワークアジアのマリオンと紹介しなければならなかった)、アジアアーツネットのスティーブン、アーティスト側から、シンガポールのネセサリーステージのアルヴィン、そして私。
 何がアジアか、喋ったことは以下のようなことであった。一部であるが、思い出して書いておく。とても大切なことだと思うからだ。

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 「アジア」「アジアの舞台芸術」と括る意味がどこにあるのだろうと、自分自身、よく問うている。
アジアとひとくくりに括れるものは何であるか?地理性と言っても、これは便宜的にヨーロッパに対してのアジアと括られたわけだから、大した意味はないだろう。
「アジア」は多様だとしみじみと思う。ヨーロッパのEUのようにキリスト教を核としての集合体を作るなどということも不可能だろう。宗教は混沌とし、民族も混沌とし、文化にしても、大きな相違がある。アジアと括って、何か共通なものがあると思いたがるのも分かるが、似ているようで似ていない。が、何かある。確実に何かあるのだ。
ここで、今回のこのプロジェクトの話をしたいと思う。
これはアジアだからこそできたものだろうと思う。これはとても重要な点である。アジアだからこそできた。なぜなら、演出家ばかりでこういうことを試みようし、それを遂行し、そしてほとんどエスケープするアーティストが出ないまま、3年もの長きに渡って実行し得た、ということに対してである。
と言うのは、その根底に、わずかながらもこういう事が可能となる可能性があると信じたアジア人が多いということだ。果たして企画者がヨーロッパ人だったら、考えたか?そして、それに向かって集う、各々の国に於いてそれぞれエスタブリッシュされた演出家がいたかどうか?そう思うと、これはアジアならではのプロジェクトだったのではないかと思う。
つまり、その根底にあるのは、私はアジア的な混沌と許容の精神なのだろうと思うのである。先日までインドにいたが、ホテルグランドアジアを見、そして昨日、話を聞いて、これはインドの混沌そのものだ、そしてそれをやってのけてしまう許容力にものすごく感心したのである。
つまり、アジアの舞台芸術を考えるとき、この視点を外してはならないだろう。混沌と許容はどこから来るのか?ひとつの輪廻思想からの発想ではないか?もちろん宗教はさまざまであって、一神教のキリスト教もイスラム教もあるが、アジアではまだまだ、宗教は土着的神話と合体して、単なる一神教とはなっていないだろう。自然と常に合体した視点も忘れてはなるまい。ずいぶん変りつつはあると思うけれど、自然の中の身体という発想をアジアでは持ち得ている。もちろんアジアばかりではない。南米に行ってもそうだ。揺らぎの身体とでも言えばいい。
そして、アジアには混沌がある。日本はまるで純粋培養のような国と考える方もいるかもしれないが、これだけさまざまな新しい文化をいつの間にか不気味に消化吸収してしまう国もそうそうあるものではない。混沌を消化して別物に変えてしまう国もあれば、混沌を混沌のまま残していく国もある。

だからこそ、アジアの舞台芸術は無意味な部分を多く保有し得ている。無意味とは感性レベルのことを言っている。動きはこうこうこういう意味がある、と言われても、一応の理解でしかないのではないか、と思うのだ。一応の理解は方便である。しかし、無意味こそが最も強く、最も深い。
とてもアジア全般の舞台芸術で、面白く思うのは、時間の感覚と、無意味に対する感性に対してである。そこに何か将来の身体の可能性を開く契機が潜んでいるのではないかと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 とまあ、なんとなく、こんなことを喋った。
 
 それから、アジアアーツネットの件で、吉本さん、スティーブン、パブリックの松井さん、私での簡単なミーティング。

 みなみなと別れを惜しみ、電車に乗ると、また乗り過ごす。
 最近は、座ると寝てしまう。

 今日は福岡で地震があったらしい。
 本格的に地震対策は考えた方がいいなあ。


注;「ホテルグランドアジア」とは
世田谷パブリックシアターの松井さんがプロデューサーとなって、アジアの各々すでにエスタブリッシュされた演出家を16名集め、3年間に渡って、さまざまなワークショップを繰り返した末に製作した作品。今回が最終発表であった。
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by kikh | 2005-03-21 00:44 | アート
 
3/16 ホテルグランドアジア

 まったくネットで航空券を予約しようとしたら、やたらと時間ばかりかかり、分からないことが次々と出てきて、大変だった。香港行きを航空券とホテルで探したが、これ、実にツアーの方が安い。比較にならないほど安い。ひとり部屋に変更しても安い。ホテルは最低のホテルに泊まれば別だが、そうでなければ、どうしても4月半ばの時期だと一泊、10000円を超えてしまう。仕事の場合、格安ホテルというわけにはいかない。なぜならネットにパソコンを繋げられないからである。
ツアーの場合、通常2名で1部屋を使う計算で成り立っている。もしひとり部屋にするならば、上乗せされるのだ。この料金が結構高いのであるが、それを加えると、ほとんど航空運賃代と変らなくなる。格安航空券の値段とツアー料金が同じってのはどうしても解せないよな。マイレッジがつかないとか、ツアーだと観光を少しばかりしなくてはいけないと言うのがある。香港では今さら観光もないとは思う。もう20回以上行っているのだ。飽き飽きだとも言える。だが、思えばビクトリアピークとか、観光をしたことは一度もない。そう言う意味では香港で観光はいいかもしれないと思った。ツアーか。行ったことないもんなあ。どこにも。

 P.A.I.の研究生稽古。「百年の夏」稽古である。相変わらずみんな、覚えが悪い。だから、研究生と稽古するときは時間ばかりもてあます事になる。なぜなら、覚えが悪いので、その待ち時間が長い長い。この前まで「三人姉妹」をやっていて、ほんのわずかでどんどん覚え、どんどん進められるのが実に楽しかったけれど、今度は一転、苦行の時間に耐えなくては成らない。と同時に、また、果たしてこのペースで間に合うのか?非常に不安になっている。ここまで覚えが悪いと、ううむ、困った。

 終わってすぐ、シアタートラムへ向かう。「ホテルグランドアジア」というアジア中の舞台芸術家が集まって、作り上げた作品である。パブリックシアターの松井さんが中心になって作り上げた企画であるが、さあて、なんと言えばいいか。
 まず、一番強い印象は、インドネシアの俳優たちにあった。なぜなら、身体と演技が非常に確かな地点に立っているからである。舞踊的身体と演劇身体の分離がない。だから身体がともかく強い。それ以外の参加者たちも各々、各国の代表的な舞台芸術家であるから、面白い。しかし、こういう舞台では身体ほど強いものはない。そして、難しいなあと思ってしまうのは言語であり、全員が演出家であり、役者であり・・ということだ。なんともものすごい信じられないような企画なのだ。これをどう考えるか?今はまだ、なんとも言えない。
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by kikh | 2005-03-17 21:24 | 日々の記録
 
3/15 新しい作品を創造すること
 朝から文筆。そして調べモノ。終わって、研究生の稽古を夕方まで。タイトルを「百年の夏」にしようと思っていたが、ううむ、テレビ欄を見て「百年の恋」というタイトルが目に入った。これもいいなあ、とおもいなおし、さてどうしようか?
 
 いろいろとネットで調べモノをしていたら、もう8年も前の作品の、だが、未だに上演の多い作品批評が出てきた。熊倉敬聡という慶応の先生が書いている文章である。下にその文章を載せておくが、しばらくぶりに読んでしまった。しまった、というのが正直な感想。批評はそもそもまともな批評家がきわめて少ないわけだから、読むこと自体が無駄に等しいとさえ言えるのだけれど、こういう批評を読むと、本当に情けなくて、どうしようもねえなあ、とひとりごちるしかなくなってくる。表層しか見ることができない批評家はごまんといるが、その中のひとりに過ぎないということか。美的、実存的ナルシシズムと書いているのが面白い。知的レベルが低いか、感性不在か。表面だけ見たら、まったくその通りに見える要素はあるかもしれない。そして彼は表層からは一歩も先に進めないまま、リアルだの歴史だのと持ち出す。しかし、その表層は、あくまでも入り口にしか過ぎないわけで、そこをまるで分かっていない。いや、感じられなかっただけなのだろう。なぜか?身体が不在だからである。身体がないから、感じることができない。と言うようなことを当人に言っても分からないはずだ。身体のない人はいくら頑張っても「ない」のだから、理解不能にしか陥らない。そういう人は頭を使って感性を補おうとする。知識であらゆる物事を判断しようとするのである。知恵ではない。知識をフル活用して、なんである。だが、知識ほど厄介で、ショウもないものもない。そのくせ、「リアル」を語る。リアルとは何か?分かっているのだろうか?
 「船を見る」の上演依頼は引きも切らない。たぶんこの批評家には理解できないと思う。あるいはノスタルジーの好きな人は多いのです、とか、言うのだろうか?そんなものを作ってはいない。「想像界に幽閉されている」と書いているが、想像から作品を作り出してはいないし、想像界に幽閉されているのはこの批評家の頭である。すべての登場人物には実在のモデルがいて、私にとってはリアルな存在との関わりから生まれた作品であるが、そんなことについて書いてはいないとか、言われそうだ。だが、海外の批評では、奇妙な人物たちのリアル感が語られ、宇宙論が語られる。人生について語られる。・・・たぶん熊倉さんは記号としか、あるいは記号でしか読みとれなかったのだろう。
 同じような、では、タルコフスキーの「ノスタルジー」という作品はいったい、どういうのだろう。紋切り型であっても、あれは歴史のリアリティがあるとか言うのだろうか?まあ、フランス文学者らしいから、ヨーロッパ好きなんだろう。それにしてもひでえもんだ、というのが正直な感想である。

 作品を作り続けるためには、いろいろな試みをする。試みは、あるときはノスタルジーを題材に、人間模様をデフォルメ化して、自分自身の中に新たな人物像を創造し、新しい方法論への模索とすることだってあるのだ。いちいち、こういうことで批判されたのではかなわない。批評家は、もっと真摯に批評家たらんとしなくてはいけない。批評家であるためには感性が要求される。感性のない批評家は退散して欲しい。それこそアートをダメにするだけである。



退行するパパ・タラフマラ
─新作『船を見る』を観て

●熊倉敬聡


美的・実存的ナルシシズムへの幽閉

それはあまりに退行的な舞台であった。
  セピア色の衣装をまとう人物たち、そのまにまにたゆたう仄かなけむり、古ぼけた家具、自転車、それらを甘美に包む海鳴り、遠吠え。それはまさに「思い出」の、「ノスタルジー」の“紋切り型”であった。演出の小池博史は公演パンフレットの中で語っている。「『船を見る』という作品は、そもそも私の記憶から掘り起こしていこうとした作品である。どちらかというと自分自身のパーソナルな部分から作品をつくるなどということを嫌っていただけに、『船を見る』は新たな発見を自分自身にもたらそうとしていると言っていいだろう。」確かに、小池博史という個人にとっては、この作品が一つの「新たな発見」だったかもしれない。しかし、その「発見」は(仮に発見があったとして)おそらく彼一人にしか意味を持たない。そこには、美的、実存的ナルシシズムがあるだけであり、「個人」の記憶を突き抜け、他者の「歴史」に出会うような契機は皆無に近い。
  作品の後半、今度は一転して、パフォーマーたちは近未来的なメタル色の衣装をまとい、星降るファンタジーに満ちた空間で踊る。その傍らには、顔がテレビモニターと化した男の人形と、大柄なイヤリングとともに頭部をくるくる回転させる女の人形が座している。この美しくもナンセンスな空間が、小池にとっての「未来」なのだろうか。

「ポストモダニズム」への疲労の後に
できることとは?

この『船を見る』では、結局、「過去」も「未来」も“想像界”に幽閉されている、しかもごく「個人」的な、紋切り型の想像界だ。しかし、リアルな時間とは、「歴史」とはそんなものだろうか。紋切り型のノスタルジーなどからむしろこぼれ落ちてしまうものこそ、(今さら言うまでもないが)「歴史」のリアリティを形作るものではないだろうか。また、「未来」も、記号化されたファンタジアとは無関係なところで、刻々と唯物論的にイデオロギー的に生成しているのではないだろうか。
  この作品には「破綻」がない。パフォーマーの小川摩利子と松島誠の時たま発する強度を除き、そこには「リアルなもの」へと破綻しゆくものがなにもない。
  消費社会化された「ポストモダニズム」への疲労の後に、日本のアーティストたちができることとは、このような美的・実存的ナルシシズムへの退行のみなのであろうか。私はそうであってはならないと思う。

[くまくら たかあき/
 フランス文学、現代芸術]
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by kikh | 2005-03-16 02:46 | アート


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