★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
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東北関東大震災に思うこと
東北関東大震災に思うこと


 3月11日、日本の東側に当たる東北、関東地方は未曾有の大震災に見舞われました。
その後の痛ましさは言語を絶するほどです。人々が一生をかけて必死になって築いてきたものが、壮絶な力によって有無を言わさず、一気に奪われてしまう。なんという残酷。なんという無念。なんという暴力か、と感じます。涙を流しても流しきれない。どうしていいか分からない。その後も氷点下の日が続く毎日。テレビを見ているだけでも、歯ぎしりし、歯が浮かんだような感覚で身体中に力が入ったままだったのですから、現地はいかほどだったか。
被災してしまい、辛うじて生き残った多くの皆さんには、それでも、絶望することなく、歯を食いしばって必死で生きて欲しいと願います。絶望の淵にある時は「神も仏もあるものか」と思うでしょうが、悲しみの涙が涸れたら、生きる力も沸いてくる。人は根元的に再生能力をたっぷりと持っています。だから、なんとしても必死で生きて欲しいと願わずにはいられません。

以上のような気持ちと同時に、私には一方では強い無念があります。原発の問題に関しても思うところは多々ありますが、一点だけ書いておきたいと思います。
 今回の地震は自然の脅威を目の当たりにした非常に痛ましい震災です。しかし、それとは別に、私は果たして単なる天災としては切り捨てて良いものかどうか、という思いがあります。地震、津波は天災以外のなにものでもありません。けれど、私たちは天災をもたらす自然をどのように考えて生きてきたのか、今、改めて深く問いかけるべきでしょう。
 日本近郊の地下には、いくつものプレートが重なりあうようにして存在しています。そのプレートの際に日本列島が乗っているのですから、地殻変動を起こせば間違いなく地震が起きる。たまたま日本の経済的な高度成長期には大規模地震が起きず、よってその一時的な安心の元で日本は急激に成長してきました。しかし、元々がそのような脆弱な地盤の上にいるわけですから、地震は起きてしかるべき土地なのです。
 人間は、太古の昔から、自然と共に生きてきました。氷河期があり、洪水、干ばつ、地震、噴火・・・数多くの自然の脅威と共に生き、人類史の大半は飢餓的状態に置かれていたと言われています。ゆえに、狩猟民であった時代には、食は天から与えられるもので、天の意向を聞きながらでなければ生きる事自体、困難でした。ですから、自然の声に耳を傾け、その知恵を拝借しつつ、いかに大地や他の生物たちとの共生を計っていくかが深く問われたのです。
 ところが、次第に自然は脅威だが、人間はそれを超えられるという錯覚が起きるようになっていった。人間至上主義の考えが生まれ、その至上性の上に、さらに経済優先の思想が乗ってくる。と、途端に多く太古から育んできた知恵は片隅に追いやられ、一定方向に流されるようになっていきました。ヒトが耳を傾けるべきは、権威と経済に大きく左右されるようになっていったのです。

 今回、115年前に発生した三陸沖の大地震の時の大津波を想定して、堤防を築いたが、まさかその上を津波が越えるとは思わなかったと国や自治体の役人は言います。しかし、それを軽々と乗り越えてきた。原発事故にしても、「あの程度の地震なら何ともないが、津波は想定外だった」という学者がいます。
 ヒトは狩猟民時代、生きるか死ぬかという動物や自然との駆け引きがあった上で、食を得てきた。つまり、あくまでも自分の命を賭して自然に挑んでいったのです。ところが今、ヒトは堤防があれば問題がないとか、原発がなければ豊かな生活は送れないと考える。
 こういう地震大国日本に生きている私たちはもっともっと謙虚に大地の声に耳を傾け、別のエネルギー手段を講じるべきだし、津波への対策を立てるべきでしょう。自然を相手にグローバリズムを言っても意味がありません。自然の強大な力を押さえ込むことはある程度はできるでしょうが、傲慢ではいけません。これはなにも日本だけの事ではない。どこでも、ヒトは自然に対し、謙虚でなければならない。経済と効率を優先させて、自然を敵に回し、後で何とかすればいいと考えるような考えはもはや完全に改めねばならない。

 日本全体でこれから必死になって復興に向けて動き出すでしょう。しかし、道を誤ってはいけません。間違っても同じ方向での再興ではなく、新しい場所性と文化性を持った方向性を打ち出す必要がある。’経済性’’常識’‘グローバリズム’、こうした認識手法だけではない新しい方法を見出さねばならないのです。
 それは根元性にあると言っていいでしょう。ヒトは何であるか?その根元を謙虚に見つめることから始めるしかないのです。そのとき、非常に重要なのは、最も身近な自然である‘私たち自身の身体の声’です。その声を聞き、単なる情報の受信体ではなく、全感性をフル動員できるような感覚体としての受信体で私たち自身がいる必要があると考えます。

 私たちは震災に遭われた方々へのあらゆる面からの援助の手を差し伸べるのは、言うを待たないでしょう。同時に、私たちは今後の日本、そして世界を真摯に考えねばならない瀬戸際に立っているという強い認識を持った活動をしていかねばなりません。それこそが今回の大震災を正面から受け止めるということです。
 
 私もパパ・タラフマラも、これからさらにヒトの根元性を探りつつ、強く社会にコミットしていける状況を作り出さねばならないと考えています。
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by kikh | 2011-03-28 00:43 | 日々の記録
 
地震と共に思うこと
 結構、テレビに釘付けになっている人がいるようである。釘付けになるのは仕方がないし、脳に焼き付けておくことは非常に大切な事と思う。だが、どのテレビ局も全部、同じニュース、つまり東北関東大地震のニュースだけをながし続けている。大災害であることは痛く、苦しく、いてもたってもいられないほどだ。異常な事態だということも強く認識する。けれど、延々と世界にはこのニュースしかないかの如く、横一列に流し続ける意味が分からない。世界ではさまざまな事が起こっているのである。だが、横一直線になってしまう。見方が違うならばまだ良いが、メディアはまったく同質と言ってよい。いくつかのメディアが必要だというのならば、なぜ、協議して時間を区切って3つの放送局が流し続けることにしようとかしないのか、本当に見事なほどに横並びである。

 加えて、こうして同じようなニュースばかりを見続けていても良いことはなにもない。精神的にはどんどん落ちていく気分を味わう事になる。私たちができることはないか?と考えるのは大事だと思う。しかし、自分たち自身の足下さえ定かでないときに、どうやって他者に手を差し伸べられるのか?手としてはカンパする、物資を届ける等が考えられるが、今はただいかに悲惨かを痛感させる役割だけをメディアは担っているかの如くである。

 このニュースの巨大さの前では、ニュージーランド地震も小沢問題もなにもかもが卑小なものとなってしまい、陰に隠れてしまう。ニュースなどは相対的なものでしかないとしみじみと感じてしまう。だが、つい先日まではニュージーランドでの被災者に対して、毎日のように大きなニュースになっていたではないか?ニュースとは本来は等価でなければならない。もちろん大小はあってしかるべきだし、相対的であることは否めないがAll or Nothing のニュースなんて、一体どこにジャーナリズムの矜持があるのだろうか。

 だからこそ、私たちは、冷静でなければならない。次々とチェーンメールが流れてくる。そのチェーンメールがますます人を不安に陥れる。そこに持ってきて円高と株価暴落が重なる。この国はどうなってしまうのか?不安におののく。もちろんこれで日本の繁栄が幕引きとなる可能性もあることはある。だが、そのような事も視野に入れての冷静さが求められよう。

 舞台芸術界でもそうだ。今こそ舞台の力を!!という方もいる。いるが、今すぐはなにもできまい。何かできるとすれば2ヶ月後くらいになってくるだろう。その時を目指して、今から準備するのは結構な事だ。だが最も厳しいとき、一緒になって興奮し、一段落すると忘れてしまうのではなく、一段落した頃が一番メンタル面の危険性が高いことを知るべきだ。熱しやすく冷めやすいのではなく、常に冷静な判断をして欲しい。
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by kikh | 2011-03-14 14:57 | 日々の記録
 
超人よ
 テレビ画像を見続けているウチに、今、私たちに突きつけられている問題が、津波となって襲ってきたような気分に僕は陥った。
 不謹慎だと言われるのは承知だ。だが、津波に飲み込まれ、地震の被害に遭われた方々に対しては、大きく見開いた目でテレビを直視し続け、強烈に脳裏に焼き付けて、これからどうしたらいいのだ私たちは、と問い返すことでしか次は見えて来ることはないだろう。テレビでは東北大学の教授が、これは1000年に一度と言ってもよいほどの大地震なのだ、と言っている。しかし、1000年に一回だろうが、2000年に一回だろうが、起きうる可能性はあるのである。
 
 そもそも人間が自然と闘えるわけがない。自然を超えられるわけがない。そんな印象を誰もが持っただろう。
 これは私たち人間が人間をどう見つめるか、という試金石のような気がしている。911は人対人の問題であり、文明間の対立の構図を多くが描き出したけれど(本来は違うが、方便としてこのように使用する)、今回は文明とは何か?という根本的な問題を突きつけられた人間としての根元的な問題であろう。自然との調和によって成り立つ社会ではなく、自然を人為的力でせき止め、コントロールすることで成り立ってきた社会の脆さが厳然と突きつけられた格好と言ってよい。自然の前に跪いていた人間が一瞬にして自然を超え、優位に立ち、優位に立ち続けなければ生きられない社会を築いてしまったのだから、自然に立ち返ることは不可能な領域に私たちは立っている。
 つまり、昔なら神的領域であった領域に踏み込んで、自然との戦いに明け暮れる覚悟を持った私たちの立ち位置ということである。狂牛病などは前兆だったと言えなくもない。
 私たちはどうすれば良いのか?明快な答えなど出てくるはずがない。なぜなら、社会構造が文明ありきだからだ。国家ありきだからだ。大きな転換を図る覚悟を私たち皆が持つしかないだろうが、まったく簡単ではない。しかし進むしかない。悲しみに暮れつつも、進むしかあるまい。
 
 日本国の円高がこの地震で更に進み、株価が暴落している。
 下手をすれば日本は沈没するだろう。この機に乗じて、手を弛めず、一気にアジアの覇権を握ろうとする隣国として中国は台頭するかもしれない。領土問題もここぞとばかりに攻め込んでくる可能性もある。しかし、これはもしかしたら日本人全体に与えられた千載一遇のチャンスかもしれないのだ。不謹慎!という言葉が聞こえてくる。不謹慎と言えば不謹慎であるが、ここで日本の構造を変えるくらいの意識を持たねばなるまい。それは世界構造にまで発展させねばならないかも知れない。
 構造を変革するためには、既存構造の上で利権をむさぼってきた人たちでは変革の可能性などあるわけがない。だが、どこにいるのか?
 超人よ、出でよ!今こそ超人の世界である。
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by kikh | 2011-03-14 10:46 | 日々の記録


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