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★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
このところ
 このところずっと動き続けている。
 P.A.I.は始まり、埼玉芸術総合高校の授業も始まり、高校生たちの可能性をヒシヒシと感じるが、さて、ここからどんなフウに日本を作っていくか、そのようなことばかりを考えている。地震が終わったのか?まだ分からない。まだまだ分からない。浜岡原発を止めたのは良いがあれで大丈夫とは誰も思っていない。政治家たちの動きを納得している人はひとりもいないだろう。つまり、今、日本全体が疑心暗鬼状態で、何を信じれば良いか分からなくなっている。信じてきた世界が一気に崩壊した。本来は崩壊して当たり前の世界だったのに、それを後生大事に育ててきたのが私たちなのである。だからこそ、そのショックが大きい。
 なぜそのショックが大きいのか、今、そのことに関してまとめようと、時間を見つけては文章に書き綴っている。
 
 長年、舞台をやってきて、ほとほと幻滅もした。幻滅しきった時に、画に描いたような震災が起きた。要はそういうことだ。画に描いたような!

 今日、こういうことを書くとまた物議を醸し出す可能性があるのだが、土方巽の「禁色」という作品に寄せての文章を読む。土方の文を絶賛する人もいるが、おかしいんじゃねえの?と言いたくなるほど何にも意味が分からない。こりゃあ自己陶酔でしかなかろうと思うが、土方さんくらいに持ち上がってしまうと、なんでもかんでも良くなってしまうのだろう。ただ、これが日本なのだ、と思わなくもない。この批評性のなさ。批評の育たぬ土壌。土方になるととたんに取り巻きが押しつぶす。つまり、批評を悪口と捉え、批評できない場を作り上げる。それも同じ根っこである。福島原発の問題も土方文の問題も同じなのだ。根っこはね。
# by kikh | 2011-05-11 21:55 | 日々の記録
 
震災を活かせ
 もう5月4日になっている。最後に書いたのが4月10日だから一ヶ月近く、何にも書かない状態が続いていた。
 この一ヶ月、かなり動きに動いていた。埼玉芸術総合高校の授業が始まり、僕は週に2駒の授業を受け持つことになったのだ。高校生は実に吸収が早く、大きな可能性を感じさせたので、楽しみになってきた。それ以外にも次々と人に会い、話をし、シンポジウムに出、しゃべり、日本を移動し、こんなことを繰り返していた。イベントは全部潰れたがチャリティイベントが出てきて、それに出たり、チャリティでのCD作りなんてのも進めている。ところが、震災のために、僕ら自身の足下に火が点いてしまっている。
 本気になって、やっと、本を書こうと思い立った。もうダメだと思う。この国にいて何をやろうが、言葉には叶わないのだ、と強く実感することばかり起こっている。芸術を理解する人はいないわけではないが、実に少ない。芸術という言葉のまやかしにコロリと騙される人も多いし、芸術自体、理解できない人たちは相も変わらず、悲しいほど多い。政治家や役人の多くは本当にダメだ。話にならない。震災でハッキリしたのは、やっぱり頭人間は使い物にならないということだ。感情ばかりの人間もほとんど使い物にならない。
 この震災をプラスに働かせること。
 これしかない。ここで僕らはどこに行くことができるかが試されている。
 僕自身もパパ・タラフマラ30年の中での最大の踏ん切り年になってくるだろう。大きな転換点に今、立っている。
# by kikh | 2011-05-04 19:21 | 日々の記録
 
4/9 茨城・日立~4/10
 日立の実家に戻る。朝早く、車で出て、夜東京に戻って、ギリギリで最終電車に乗った。
 日立ではずっと片づけをする。弟が来て、片づけは随分としてくれたらしく、あまり震災の跡は残ってはいなかった。それよりも、日立まで東京から来る途中の高速道路が波打っていたのだから、たぶん日立の方が地盤が固いのかもしれない。
 日立でも数カ所の海岸線を見て回る。やはり津波の跡が痛々しい。とは言え、三陸海岸辺りの状況とは比較にならないほどではある。それでも相当な恐怖があっただろうことは想像に難くない。ならば、宮城、岩手あたりの津波は考えるだけで恐ろしくなる。

 本日、10日。選挙。速報を見ていると自民の圧勝ではないか。民主がダメなのは言うを待たないが、いいかね、忘れてはいけないのは、原子力を推し進めてきたのは自民党政権で、それが官と一体化しつつ、行ってきた政策が今をもたらしていることだ。民主も自民ももはや話にならん。こんな時、子ども手当の問題をハッキリさせなければ手を握れない、等と言っている自民党にはまるで未来はないだろう。話にならない。何をさておいても大連立内閣を作り上げなければ、この国難を乗り切ることはできまい。
# by kikh | 2011-04-11 00:15 | 日々の記録
 
4/5 卒業公演
P.A.I.の卒業公演も16回目を迎えた。
今年の卒業生には正直、相当、いらいらさせられた。一般的な常識がない。知力が低下しているのか?と思った事も何度もある。一般常識なんて疑った方が良いというのはしょっちゅう言っているので、自分で一般常識なんて言いたくはないが、しかし、基本的な知識くらい持ってろよ、っていうのはある。基本的知識くらい持ってないと会話が成り立たない。話が通じない。
みんなそれなりに一所懸命なんだろう。だが、時代が変わってきたのか、だんだんタフネスでなくなった。タフネスが消えたら、もうダメだ。生きる力みたいなものである。そして生活苦である。生活に勢いをもたらすには、アイデアと生き抜く力であろう。
とは言え、一年、やり通せば、何かが生まれる。でも全然、一年じゃ足りない。最低でも2年~3年はかかる。そこからギリギリと面白さが出てくる。

原発問題に限らず、日本は、なにからかにまで、内向きだ。発表、発言、舞台作品・・・。多くは日本の内側に向かっている。海外に向かえるのも国内評価こそが一義である。
高濃度、低濃度にかかわらず、汚染水を海に垂れ流す事の拙さは、何も日本人だけではなく、世界の人間にとって、日本はいったい何を考えているのか?と思わせるに十分な出来事であろう。誰からも信用されない国民に成り下がってしまう。起こしてみて初めて分かることがあるが、東電は東電内部論理、政府は政府内部、メディアはメディア内の論理しか持ち合わせていないように見えてしまっている。今、民主党も自民党と大連立を行い、問題を震災に焦点を当てて、果敢に乗り切る事を模索していくことこそが肝要だろう。震災には最大限の事をするが、他がダメなら連立はダメだという。だが、今は非常事態なのだ。日本が世界でどう見られるか、試されるか、その瀬戸際なのだ。
# by kikh | 2011-04-06 10:01 | 日々の記録
 
東北関東大震災に思うこと
東北関東大震災に思うこと


 3月11日、日本の東側に当たる東北、関東地方は未曾有の大震災に見舞われました。
その後の痛ましさは言語を絶するほどです。人々が一生をかけて必死になって築いてきたものが、壮絶な力によって有無を言わさず、一気に奪われてしまう。なんという残酷。なんという無念。なんという暴力か、と感じます。涙を流しても流しきれない。どうしていいか分からない。その後も氷点下の日が続く毎日。テレビを見ているだけでも、歯ぎしりし、歯が浮かんだような感覚で身体中に力が入ったままだったのですから、現地はいかほどだったか。
被災してしまい、辛うじて生き残った多くの皆さんには、それでも、絶望することなく、歯を食いしばって必死で生きて欲しいと願います。絶望の淵にある時は「神も仏もあるものか」と思うでしょうが、悲しみの涙が涸れたら、生きる力も沸いてくる。人は根元的に再生能力をたっぷりと持っています。だから、なんとしても必死で生きて欲しいと願わずにはいられません。

以上のような気持ちと同時に、私には一方では強い無念があります。原発の問題に関しても思うところは多々ありますが、一点だけ書いておきたいと思います。
 今回の地震は自然の脅威を目の当たりにした非常に痛ましい震災です。しかし、それとは別に、私は果たして単なる天災としては切り捨てて良いものかどうか、という思いがあります。地震、津波は天災以外のなにものでもありません。けれど、私たちは天災をもたらす自然をどのように考えて生きてきたのか、今、改めて深く問いかけるべきでしょう。
 日本近郊の地下には、いくつものプレートが重なりあうようにして存在しています。そのプレートの際に日本列島が乗っているのですから、地殻変動を起こせば間違いなく地震が起きる。たまたま日本の経済的な高度成長期には大規模地震が起きず、よってその一時的な安心の元で日本は急激に成長してきました。しかし、元々がそのような脆弱な地盤の上にいるわけですから、地震は起きてしかるべき土地なのです。
 人間は、太古の昔から、自然と共に生きてきました。氷河期があり、洪水、干ばつ、地震、噴火・・・数多くの自然の脅威と共に生き、人類史の大半は飢餓的状態に置かれていたと言われています。ゆえに、狩猟民であった時代には、食は天から与えられるもので、天の意向を聞きながらでなければ生きる事自体、困難でした。ですから、自然の声に耳を傾け、その知恵を拝借しつつ、いかに大地や他の生物たちとの共生を計っていくかが深く問われたのです。
 ところが、次第に自然は脅威だが、人間はそれを超えられるという錯覚が起きるようになっていった。人間至上主義の考えが生まれ、その至上性の上に、さらに経済優先の思想が乗ってくる。と、途端に多く太古から育んできた知恵は片隅に追いやられ、一定方向に流されるようになっていきました。ヒトが耳を傾けるべきは、権威と経済に大きく左右されるようになっていったのです。

 今回、115年前に発生した三陸沖の大地震の時の大津波を想定して、堤防を築いたが、まさかその上を津波が越えるとは思わなかったと国や自治体の役人は言います。しかし、それを軽々と乗り越えてきた。原発事故にしても、「あの程度の地震なら何ともないが、津波は想定外だった」という学者がいます。
 ヒトは狩猟民時代、生きるか死ぬかという動物や自然との駆け引きがあった上で、食を得てきた。つまり、あくまでも自分の命を賭して自然に挑んでいったのです。ところが今、ヒトは堤防があれば問題がないとか、原発がなければ豊かな生活は送れないと考える。
 こういう地震大国日本に生きている私たちはもっともっと謙虚に大地の声に耳を傾け、別のエネルギー手段を講じるべきだし、津波への対策を立てるべきでしょう。自然を相手にグローバリズムを言っても意味がありません。自然の強大な力を押さえ込むことはある程度はできるでしょうが、傲慢ではいけません。これはなにも日本だけの事ではない。どこでも、ヒトは自然に対し、謙虚でなければならない。経済と効率を優先させて、自然を敵に回し、後で何とかすればいいと考えるような考えはもはや完全に改めねばならない。

 日本全体でこれから必死になって復興に向けて動き出すでしょう。しかし、道を誤ってはいけません。間違っても同じ方向での再興ではなく、新しい場所性と文化性を持った方向性を打ち出す必要がある。’経済性’’常識’‘グローバリズム’、こうした認識手法だけではない新しい方法を見出さねばならないのです。
 それは根元性にあると言っていいでしょう。ヒトは何であるか?その根元を謙虚に見つめることから始めるしかないのです。そのとき、非常に重要なのは、最も身近な自然である‘私たち自身の身体の声’です。その声を聞き、単なる情報の受信体ではなく、全感性をフル動員できるような感覚体としての受信体で私たち自身がいる必要があると考えます。

 私たちは震災に遭われた方々へのあらゆる面からの援助の手を差し伸べるのは、言うを待たないでしょう。同時に、私たちは今後の日本、そして世界を真摯に考えねばならない瀬戸際に立っているという強い認識を持った活動をしていかねばなりません。それこそが今回の大震災を正面から受け止めるということです。
 
 私もパパ・タラフマラも、これからさらにヒトの根元性を探りつつ、強く社会にコミットしていける状況を作り出さねばならないと考えています。
# by kikh | 2011-03-28 00:43 | 日々の記録


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