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★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
3/15 オゴオゴの日
 今日はバリはセレモニーの日。このセレモニーは15日、そして本番の16日を迎えることになる。16日はセレモニーと言っても、要するにいっさいホテルから出たりできず、完全外出禁止の日で、それは外国人ツーリストにも完全に適応されるのだとか。それ以外はなにもないのである。


 今回のバリの旅は単に台本書きのためだけになにも知らずに出てきたのだが、思わぬ拾いものがあった。今日3月16日がバリ新年の日、つまり元旦ということになり、誰もが一歩も家から出てはいけない日で、ゆえに車もバイクも走らない。空港すら閉鎖される。そして夜になると一切、電気すら点けてはいけない、万一、電気を点けているのが見回り人に見つかったときは、ガラスを割られても、外を歩いていて袋叩きにあっても仕方がないという日とされているらしいのである。それほど厳格になにもしない日とされている。
 思えば日本もまた、最近は元旦から開いている店が多くなっているが、昔は、シーンと静まり返っていたものであった。社会は次々と昔ながらの風習が消え、何でも売れるものが良くなり、売れないものはだめなものとして、捨て去られる社会になってしまっている。これに異を唱えても、所詮はマーケットの中で行き場がなくなるだけだ。
 公共ホールも同様で、どこもかしこも、観客が入る作品が良いものと思いこんでいる。いや、思いこんではいないと言うかもしれない。しかし、現実には観客が入ることが一義である。いったいなにが公共か!と言いたくなるが、公共であることを、皆が喜ぶ作品=観客動員が図れる作品、という図式を当てはめる。簡単に言えば、公共=大衆受け、という図式だ。しかし、これほど情けない「公共」概念はないだろう。さらに言えば、「公共」に従事する人たちにパブリックとは何であるか、という意識が欠け、単なる安全な仕事として選択しているがゆえに起きている喜劇的悲劇だろうと思うのである。だから大勢におもねる。だって、その方が楽だから。そして言い分は非常に明快だ。しかし、良い社会を作ろうと思ったら、多様性の提供こそが公共の役割でなくてはならない。視聴率ばかりを重視するテレビの劣悪な姿を見れば一目瞭然だろう。客受けは重要だが、客受けだけを狙っても良いことはなにもない。次第にクリエイティビティを失い、思考しなくなっていくだけである。
 
 話はずれてしまったが、バリの静寂の日の前に、僕は2回、セレモニーを見た。ひとつは13日、サヌールで、海に向かって捧げる儀式であり、これは何が凄いかって、そりゃあ、次々とトランスして向こうの世界へ足を踏み入れてしまう凄さである。
 もうひとつはヌサドゥアでのオゴオゴというまるで日本のねぶた祭りの小規模版みたいな、張りぼての人形を使って、町の威信をかけての競い合いが繰り広げられるのである。これは面白い。そこにガムランやらバリ舞踊が絡んでなんともスゴイ迫力なんである。
 そしてその翌日が元旦となる。これは逆に静まり返っている。そういう時間が豊穣に展開されているのである、ここバリでは。まだまだここには神性領域と人間界、そしてその中間領域が厳然と残っている。昔はどこでもそうだっただろうと思うのだが、バリに来るとその感覚が研ぎ澄まされるような感じがある。それだけに人間界はさらに大変だろうとも思うのである。
by kikh | 2010-03-18 00:21 | 日々の記録
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