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★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
7/18 パフォーマンスとはなんぞや

野茂、電撃解雇のニュース。先日、日米通算200勝をあげたと思ったら、解雇である。ううん、厳しい。
だが、野茂はこうやって、何度もはい上がってきた男である。36歳という年齢の厳しさもあるだろうが、そうは言っても野茂である。だからこそ、期待する。ダメならダメで仕方がないが、それでも野茂はまだまだやれるだろう。この男の筋肉の頭脳はたいへん素晴らしい。まだできないはずはない。

研究生の授業を朝から。
ガンガン、動いて欲しい。まずはそういうことだ。テクニックなんかはどうでもいい。いや、よくないが、まずはテクニックにガチガチになってはいけない。けれど、ある程度まで行けば、テクニックがないとどうしようもなくなる。だから実は両輪なのである。テクニックと衝動と。それらのバランスが計れて、動きは、流動性を持つようになり、ダイナミズムが作られる。
それにしても、いつもいつも、なんでみんな、こんなに複雑なのだろうと頭が痛くなる。人間は複雑ではいかんのである。シンプルに生きていくのが一番なのだ。シンプルに考えれば、実はさほど何事も難しくはない。難しいのは、物事をやっかいに考える癖をずっと付け続けてきているからだ。難しく考えるトレーニングを続けていると言ってもいい。
若者たちの話は、しばしばフウとため息が漏れるようだ。別に馬鹿にしているわけではない。なんとも厄介な性格を抱えていることに「フウ」なんである。

夜まで打ち合わせが続く。


さて、東京新聞の批評について、ひとつ書き忘れている。
パフォーマンスということばについて。
パフォーマンスとはなんぞや??である。
何がパフォーマンスで、いったい、何がパフォーマンスでないのか?
演劇はパフォーマンスなのか?ダンスは、いや、流れるようなダンスはパフォーマンスではないのか?いくつか辞書を引いてみる。

1,現在「パフォーマンス」とは、アーティストによって行なわれる身体表現の総称と考えられているが、今世紀初頭の「未来派」や「ダダ」「バウハウス」らの実験に端を発するこのジャンルが、「パフォーマンス」として括られるようになったのは1960年代、「イヴェント」や「ハプニング」を経由したことによってである。ダンスやバレエといった従来の身体芸術と異なる点としては、行為者自身がアーティストであること、往々にして作家と観客という図式が超えられてしまうことなどが挙げられよう。会場や空間の性質上、主に発表の場は「オルタナティヴ・スペース」に求められるが、それは日本においてこの用語が一般化した80年代にも見られた現象であった。そして現在、「パフォーマンス」はしばしばサイバネティックスとの関連で語られる。多くの人工臓器が開発され、またスポーツ選手がドーピングによって飛躍的に記録を伸ばす現在、「パフォーマンス」もまたテクノロジーによる身体機能の拡張と無縁ではありえないからだ。
(暮沢剛巳)

2,身体的な行為の総称または、音楽や演劇あるいは舞踏などを演じることや、分野にこだわらない総合的な身体表現をいうこともある絵画、彫刻、映画、テレビなどのビジュアル・アートから、音楽、詩、ダンスなどの芸術ジャンルにまでパフォーマンスは行われ、1970年代に注目されるようになった。。一過性の表現で、多くは実験的な表現芸術の活動。また、何か第3者を驚かせるときに使われることもある。また、パソコンなどで実行できる機能をパフォーマンスということもある。

3,広義には「実行」の意味であるが、美術の分野でパフォーマンスという場合には、絵画や彫刻などの作品によってではなく、美術家の身体そのものを用いて表現する行為を指す。1960年代に、美術家の非演劇的な行為による表現形式が生まれ、ハプニング、イヴェントなどと呼ばれたが、1970年代になってパフォーマンスという名称が広く用いられるようになった。歴史的には、未来派やダダの行った挑発的な行為もパフォーマンスに含める見方もあるが、狭くは1970年代以降の美術家による身体表現をいう。美術の情報的側面を純化するという意図からは、1960年代末に生まれたコンセプチュアル・アートと似た面を持っており、また、ヴィデオを用いることが多いことから、ヴィデオ・アートとも密接な関連をもっている。形式としては、肉体を物質として扱うもの、公衆との対話を重視するもの、儀式的な形式のもの、演劇的要素の濃厚なものといろいろなタイプがある。現代美術の一翼をになう新しい表現形式である。


三つの辞書から、パフォーマンスという括りで探ってみたが、結果、見えてくるのは、要ははっきりとわからないものをパフォーマンスと語っているということだけである。だから、評者もまた、演劇にも括れず、流れるようなダンスでもない公演をパフォーマンスとしか言いようがなかったのだろうと思う。
しかし、パフォーマンスとはなんとも分からないことばだ、という思いを強くさせる。
「三人姉妹」はわからない作品なのか?
とてもそうは思えない。
形式的に新しい作品なのか?
新しさはある。が、新しさがわからなさに繋がるような舞台では絶対にない。
それよりも、なによりも演者たちの技量の新しさを語るべきなのだろう。
抽象と具象、演技と舞踊、ジャンル、そうした区分を軽々と超えている演者たちである。それはそれは凄く高い技量だろうと私は思うのである。他の誰にもできない。保証してもいい。ほとんどのダンサーも役者もできやしない。ほとんど不可能に近いことをやってのける技量があの三人にはあるのである。
それを単にパフォーマンス、パフォーマーとだけ括られたのでは、彼女たちが可哀想だ。この点に関しては、ほんとうに残念である。
俳優のダメさは、語りしかできない点である。ダンサーは踊りしかできない。もちろん語りも踊りも、限界を超えるすごさがあるので、それ自体は否定しない。しかしながら、人間の身体の宇宙について、もっと我々は思いを馳せる必要があるのではないか、と私は考えている。考え続けている。
パフォーマンスなんてことばで、訳のわからないところへ入り込んでいくのが、なんとも残念だ。では何と呼べばいいのか?

これが鍵なんである。
by kikh | 2005-07-18 22:53 | 日々の記録
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