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★小池博史★演出家・振付家・美術家・作家・写真家

by kikh
 
鼻くそおじさん
 いやあ、驚き。

 昔々、つくばの芸術監督をやっているとき、たまにバスを逃してしまって電車で帰ってくることがあったが、そのとき、目の前にいた叔父さんがボリボリと鼻くそをほじくっては指でいとおしそうに丸めていたのだった。そして、そいつをどうしたか?ポイと口に放り込む、あれれ、とビックリしたが、それを何度も何度も繰り返していたからよっぽど凄い量の鼻くそが溜まっているのだろうと、その量にも驚いたのであったが、ポイと口に放り込まれる度に身体を捩るような気分を味わい、どうにも気分が悪くなってきた。見て見ぬふりをしつつも、目点状態。オレ自身の気分も悪くなってくるが、しかし、目が離せない。これはスゲエもんだ、この人はいっつも同じことをやっているんだろうか?乗客がいるにも関わらず、まったく無関心で鼻くそを食い続けるのである。その時、同じ車両にはオレ以外にはもう一人しか乗っていず、その人は気づかなかったようだったが、オレはあのとき以来、その光景はアタマにこびりついて離れず、あのような不気味人間もいるんだなあ、日本にも、と思っていた。


 と、先日、再び鼻くそ食い人間に出会ってしまったのだった。これまた電車内で、今度は朝方の結構人がいなくなった高田馬場~中野間のみではあったが、同じく丸めてはポイと放り込む。ですが、この人、前の人よりも味わい深そうに味わう男で、まだ女でないから良いようなものの、ついつい鼻くそ食い女がいたらどんな気分だろうと想像たくましくしてしまったのであった。

 この日もずっと胸はむかむか状態であったのだった。
 ああ、日本にはどのくらい鼻くそ食いを趣味とする人がいるのだろうか?二人もいたのだから、もっといるのだろう。ギョへええ。
# by kikh | 2011-02-04 08:27 | うひょひょ!
 
わからない、ということ
 いつもいつも「わかる」「わからない」という感想が凄く多いのがパパ・タラフマラである。
 解釈も勝手にどんどん増殖する。けれど、「わからない」と感じた人たちはどんどん逃げていく。ああ、そうか、こうして客離れが起きるのだなあ、と思う。

 客離れは避けなければならないけれど、オレの性として、どうしても次何ができるかを自身で試したいという気持ちが非常に強く、どんどん変えてしまう。毎回、観に来てくれている観客の皆さんからは、さほど大きく変わったようには見えないとも言われるが、一方、2~3作抜けて再び見に来た方には変わったと言われ、10年ぶりに来た方にはまったく違うと言われるような作品になっていたりするそうだ。もちろん変化していない部分だって多い。根幹部分はそんなに変わるわけがないのであるから。けれど、自分自身の限界に挑戦しているような気持ちだけはまったくいつになっても変わっていない。

 「わからない」といわれると、いつも不思議な気分になる。「面白い」けれど「わからない」と感じる方が多いとも聞く。だが、よく考えてみることだ。「面白い」と感じられたなら、それはわかっているということなんだよ、と思う。わからないのは、それが何であるかを認識できない、できにくいということであって、でも、それが何かを認識できる事って、そんなに大切な事なの?違うんじゃないの?なぜなら、認識できないから面白さは増殖するんじゃないの?と思うからだ。「それは何か」を知ってしまったならば、疑問は残らない。だから、すぐに忘れてしまう。多くのハリウッド映画は派手で、観ているときは面白いけれど、終わった瞬間に忘れ去っている。疑問はなんにも残らない。わかりすぎるくらいわかる、と思いこんでしまうからだ。けれど、わからなくて面白いものは、これは大きすぎるくらい大きな宝である。僕にはそう思えるのである。解釈も自由だし、その解釈が正しいかどうか、それは人生をやっていく中で長い時間をかけて検証していくしかないかも知れないのである。

 世の中には「わからなくて」「つまらない」ものも多い。つまらないと感じたら、そこから先は何も起きて来ないが、面白いと感じたならば、それは大きな入り口になる。その人自身にとっての可能性への入り口だ。だから、「わからない」、そして「面白い」と感じることはとっても重要なんである。
 ただし、この「つまらない」も人生を経ていく中で、「面白い」に変わる可能性もある。それが生きることの楽しさでもある。だからこそ、「面白い」と感じ、「わからない」と思ったならば、それは素晴らしい体験であり、素晴らしい可能性を自分が獲得したと思うべきなんである。

 僕はそんなフウにして生きてきた。未だにピカソの画を観て、目は釘付けになる。頭は活性化し、グルグルと回り出す。顔はニッタリとほほえみ出す。わかるかどうかなんてどうでも良いのである。目が釘付けになるということは、自分の身体がすでに反応し、それが力に変わっているのである。人がここまでできるのか、と思えることはなんとも楽しい事じゃないか。

 僕くらいの年になってくると、周りはホントにおっさんばっかりになってしまっている。おっさんたちはますます頭が一方向にしか向かなくなってしまっている。だが、可能性の扉は本来は誰にでも開かれているのだ。自ら閉じるのではなく、自ら開こうとすれば、おっさん顔は輝き出すはずなんだ。
# by kikh | 2011-02-03 23:30 | 日々の記録
 
「白雪姫」「三人姉妹」国内ツアー
 昨年11月下旬から来月16日まで、全国10カ所での「白雪姫」「三人姉妹」ツアーを実施している。そのうちの9カ所が終わり、残りは来月16日の佐世保での「三人姉妹」を残すのみとなった。
 舞台というのは過酷なもので、20ステージ以上をやってきているが、しかし、満足できたステージは一回もない。もちろんある程度以上のクオリティは保てているとは思う。それが前提である。そしてそのためには、僕は常に「飽きたと感じた地点が出発点」と言い続けてきたし、実行してきた。でも、多くの舞台というのは「飽きる」ところまで磨く前にステージに乗せてしまっている。これが大きな問題だと思い続けてきた。
 舞台は毎日のように変えている。ほんの少しの変化なんだが、その磨き込みの精度こそが重要だとの思いがある。ほんの少しのところですべてが変わってしまう。今のサッカー日本代表の試合を見ているとよく分かるのが、そのちょっとしたところの精度、そしてそのための稽古こそがきわめて大切だということである。一昔前の、それこそ中田英寿が活躍していた頃の日本代表というのは、その精度がなく、ゆえに決定的チャンスを作り出せない状態が続いたのだが、今はまるっきり違う。大きく変化した。透けて見えてくるのは思想である。そして思想に裏付けされた精度であり、稽古である。もちろん観客はただただ熱狂して見るだけだろうが、そのちょっとしたことをするための稽古というのは、これは実に地道な作業で、その地道さをどこまで持続できるかが問われる。
 けれど、たいていはそこまではやらない。舞台もそうで、やらない。サッカーの三浦カズが凄いのは、あの年になってまで、精度を高めて行こうとする意欲に満ちている点だ。ヒトはこうでなくちゃいかんのである。ヨイヨイになる頃、さらに精度を高めて必死になれるとは素敵なことだと思うのである。俺もよぼよぼになって、必死であることを望んでいる。消えゆくように死に至るなんてのはまったく理想ではない。
 それはともかく、舞台の大変さは身に染みて分かる。分かるけれど、身を投じたからには、と更に勢いづいていきたいじゃあないか。

 昨日の兵庫県立芸術文化センターの中ホールは、日本の中では最高位と言ってもいいほど音の良い、見やすい劇場だと思う。あんなに音の良い劇場は日本では出会ったことがなかった。スッとパフォーマーの声が入ってくる。音楽もまた、非常にスッキリと聞こえてくる。だけど、やっぱり前日の17時入り、翌日15時半の公演というのはダンサー連中にとっては大変だった。大変すぎくらい大変だったと思う。半ば死んでいた。しかし、さすがにベテランで、公演の中盤にさしかかる頃から、俄然、力がわき出てきたように見えた。
 まあ、少し、スッキリと休んで欲しい。と思いきや、白井は山口情報芸術センターで稽古だという。ほっほ。これで戻ってきて、また、病気にならねば良いが、と思う。
# by kikh | 2011-01-31 11:11 | 舞台
 
佐伯さんと田口さん
「風の旅人」編集長の佐伯さんと田口ランディさんの感想がお二人のブログに載っています。


http://kazetabi.weblogs.jp/blog/


http://runday.exblog.jp/15806865/
# by kikh | 2011-01-25 22:36 | うひょひょ!
 
東京公演終了
 東京での公演が終了した。
 ときどき、作り込み過ぎではないか?と言われることがある。作りすぎはいけない、ということをしたり顔で言う方もいる。はて、そうだろうか?僕は最近、作り込み過ぎているような舞台など見たことがない。いつもいつも作り足りないというか、中途半端な感覚がする。中途半端がみんな、好きになったのだろうか?だが、たとえば、ゴダールではないが、「ゴダールのソシアリスム」、やっぱりこれ、凄いのだ。何がってさ、珍しく、作り込みどころではないくらい、緻密に緻密に作っているのが分かる作品だからだ。でも、こういうのは息苦しくて、という人もいるかもしれない。だが、やっぱりその緻密さこそが、映像でも舞台でも命だと僕は思うのである。もちろん、即興は除く。僕だって、つくばでダンサーや音楽家たちと一緒に作品を作っていたときは、枠組みを決め、美術を決めて、かなり多くの部分を彼らに任せた形で作品はできあがっていったからだ。で、それはそれで開放感もあって面白い。だけど、これではプロダクションはできないのである。

 劇場入りしてから、研究生たちとなにかと若者たちの演劇の話になった。研究生たちの多くは若者演劇(こんな括りはちょっと乱暴だけれど)を好まない。だが、それを良いという研究生もいて、すると彼はやり玉にあがってしまう。あがるけれど、僕としてはやっぱりいまいち分からない。なにがわからないかと言うと、どうしても「了解事項を元に作成されたモノ」は所詮、その域をそうそう大きく脱するモノではないと思うからである。

 ともかく、東京公演も終わり、次は愛知県武豊町での公演で仕舞いとなる。その後、兵庫と佐世保で「三人姉妹」の公演はあるけれど、でも、「白雪姫」は仕舞いである。愛知近辺の方、ぜひとも武豊町へ。28日公演です。
 
# by kikh | 2011-01-25 22:33 | 日々の記録


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